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G・D ニーチェ選集 Eの二六

  • 2012/09/30(日) 09:53:36

G・D ニーチェ選集 Eの二六

※文中の傍点や振り仮名は省略

E 永遠回帰

「さていよいよ『ツァラトゥストラ』の歴史を物語りたいと思う、
この作品の根本的構想、すなわち永劫回帰といイデー、
この肯定の方式―考えうる限り最高の方式は・・・」
(『この人を見よ』)。

二六  <力>への意志と永遠回帰

 意志すること、それこそが救済する者の名称、歓びを告知する者の名称である。
―わが友よ、私はそうきみたちに教えた。しかしまた同時に、このことも学ぶがいい。
意志を抱くことそのものが、まだ囚われているのである。
 意志は解放者である。しかしこの解放者をも鎖につなぐ者がいる。それは何であろうか。
「それは過ぎ去ったことだ、事実としてそうであった」―この言葉こそ意志を、その孤独
のうちに、悔恨と苦悩で満たす言葉なのである。意志は、既に過ぎ去った出来事に対して
は無力であり、だから過去の一切を憎しみを込めて視つめている。
 意志は、以前に起こった事象に対してはどうすることもできない。時間を破壊することは
できないし、時間の飽くことのない貪欲さを破ることもできない―これが意志の孤独きわ
まりない悲嘆である。
 意志は解放者である。それなら意志は自らの窮状を脱するために、自らの牢獄を嘲笑
するためにどうするであろうか。
 ああ、すべて囚人というものは気違いじみてくるものだ! だから囚われ者たる意思も、
気違いじみたやり方で、おのれを解放しようとする。
 時間は後戻りしようがないということ、それが意志にとっての不満の種である。
「完了した事実としてそうであったもの」―これこそ、いくら意志が切歯扼腕したところで、
動かすことのできない巨大な岩である。
 それで意志は悔しさと怒りの塊をごろごろと転がし、自分と同じように悔しさと怒りを感じ
ようとしない一切の者に対して、仕返しをするのである。
 このようにして解放者たる意志が、加害者となる。そしておよそ苦悩におちいりやすい
性質を持つすべての者を格好の標的として、自分が後戻りできないことへの恨みの腹いせ
をするのだ。
 これこそ復讐そのものにほかならない。すなわち時間に対して、また取り返しようのない
「かつてこうであった」に対して、意志が抱く怨恨と、意趣返しである。
 まことに、われわれの意志のうちには、気違いじみた点が大いにある。そしてこうした狂気
が精神となるすべを習得したということが、すべての人間にとって災厄となったのである。
 復讐の精神! わが友よ、これこそが今日に至るまで、人間たちの思索の最高の形態
であったのだ。そしてどんな場所やケースにせよ、とにかく苦悩があるところでは、その
苦悩は必ずなにものかに対する処罰である、とみなされてきたのである。
 すなわち「処罰」こそ、復讐が自分自身に対して与える名前なのだ。その欺瞞的な語の
おかげで、復讐は自らの良心になんら疚しいところはない、と装うことができるのである。
 そして意志する者それ自身の内部に、彼が過去へと遡行して意志を及ぼすことができぬ
という苦悩があるから、意志すること自体と生そのものの全体が、どうしてもある種の処罰
であるとみなされる必然性が生じたのである。
 するとそれ以降、精神の上には雲また雲が厚く積み重なり、ある日狂気は次のように
説教し始めた。「一切は過ぎ去る。それゆえに一切は過ぎ去るに値したのだ」。
「だから時間は自分自身の子供たちをむさぼり食わざるをえない、こういう時間の法則は
まったく正当なことである」―狂気はこう説教した。
「一切の物事は、合法性と処罰という道徳的な秩序に応じて、規則的に調整されている。
だから物事の絶え間ない流れから、また<生存>という処罰からわれわれが解放される
などということが、いったいありえようか」―狂気はこう説教した。
「永遠なる法が存在する以上、救済ということがありうるだろうか。ああ、たとえ何人であれ、
<事実としてそうであった>という巨大な岩を転がすことは、けっしてできぬだろう。
あらゆる罰も、従って必然的に永遠に続くのである」―狂気はこう説教した。
「いかなる行為も抹消されることはありえない。処罰を受けたからといって、どうしてその
行為がなかったものということになりえよう。ここにこそ、<生存>がそうであるような処罰
の有する永遠性という性格の理由がある。生存も、諸々の行為と諸々の過ちの連続である
ことを、永遠に繰り返さねばならないのだ。
 この循環を断ち切る道はただ一つである。すなわち意志がついに自分自身を解き放ち、
意志するということが、意志しないということに変わることである」―しかしながらわが兄弟
たちよ、狂気が繰り返して説くこうした決まり文句(リトウルネロ)は、君たちもよく承知して
いるはずだ。
 私がきみたちに「意志とは創造する者である」と教えたとき、私はきみたちを、こうした
決まり文句の影響力の外へと連れ出したのだ。
 一切の<かつてそうであった>は、断片であり、謎であり、怖るべき偶然であるにすぎない、
―しかしついにある日、創造せんとする意志は、それに向かって、「だが私は、それがそうで
あったことをいまも欲しており、これからも欲するだろう」と言うのである。
 しかし意志はこういう言葉を、かつて一度なりと発したことがあっただろうか。そしていつに
なったらその言葉が発せられるのだろうか。意志は既にその狂気を、すなわち自分で自分を
繋留する馬具にほかならないその狂気を、かなぐり捨てたのであろうか。
 意志は既に、自分自身を救済する者になったであろうか、歓びを告知する者になったで
あろうか。意志は復讐の精神を忘れただろうか、あの切歯扼腕の類はすべて忘れてしまった
であろうか。
 そして意志に、時間と和解するようにと、さらには一切の和解よりも高いものをなすように
と教えた者が、かつてあっただろうか。
 意志とはすなわち<力>への意志にほかならないが、そういう意志が欲すべきものは、
一切の和解などを超えた高いものである―だが、しかしどのようにして意志はついにそこへ
達するのだろうか。意志に向かって、<かつてそうであった>ものの回帰さえも意志する
ように教えた者は、いったい誰であろうか。
(『ツァラトゥストラはこう語った』第二部所収「救済」、ジュヌヴィエーヴ・ビアンキ訳、オービエ)

G・D ニーチェ選集 Cの一二

  • 2012/09/25(火) 23:54:25

G・D ニーチェ選集 Cの一二

※文中の傍点や振り仮名は省略

C 諸々の力と<力>への意志

「人はつねに強い者を、弱い者たちの攻撃から守らねばならない」
(一八八二年の「遺された断想」より)。

一二 多元論に向かって

 哲学者たちは意志について語るとき、あたかも意志とは世界の
うちで最もよく知られた事象であるかのように語るのをつねとしている。実際、
ショーペンハウアーも、意志のみがわれわれにほんとうに熟知のものであり、
余剰も不足もなく全的に、十全に知られているものである、とまでほのめかした。
しかし私にはいつもそう思われるのだが、ショーペンハウアーは、彼がつねにそう
するように、この場合もまた哲学者たちが習慣的にやっていることをしたに過ぎないのだ。
つまり民衆の先入見を採り上げて、それを極端に誇張したまでのことである。意志とは、
私にはまず何よりもある複合的なものであって、それを名ざす語が唯一の語であると
いう点において以外、いかなる統一性ももたないものであるように思われる。そして
まさしく意志を名ざす言葉が唯一であるという事実のうちに、民衆の先入見の原因が
潜んでいて、いつもながら慧眼を欠いている哲学者たちは、それによって眼を
くらませられてきたのである。だからわれわれは、いっそう用心深くし、ここでは
哲学者であることをやめようではないか。―われわれに言わせるならば、すべて意志
なるもののうちには、第一に諸々の感情の多数性があるのである。すなわち、ひとが
そこから外へ出ようとする状態の感情、そこへ向かおうとする状態の感情、また
そういう連動の諸方向性それ自体についての感覚、つまり「ここから出発する」方向、
「そこへ向かっていく」方向などについての感覚がある。さらにはなお付随的な
筋肉感覚もある―つまり、たとえわれわれが腕や脚を動かさなくても、われわれが
「欲する」や否や、一種の習慣によって作動する筋肉感覚もあるのである。だから
感情や感覚を抱くということ、しかも多様な感情・感覚を持つということが、意志の
諸成分のうちの一つであることは明白である。そしてそれと同様に、第二に言える
ことは、「思考する」こともまた意志の成分のうちの一つであるということだ。
なぜならあらゆる意志の行為のうちには、それを命ずる一つの思考が内包されて
いるから。だからわれわれはこの思考を「意志」から切り離すことができ、思考を
削除した後に、意志が沈殿物のように残りうる、などとは夢にも信じてはならない。
そんなことをすれば、意思も同時に消え去ってしまうだろう。第三に言えることは、
意志とはただ単に感情・感覚を抱くことと思考することの複合であるだけではなく、
なによりもまず一つの情動的状態であり、命じようとする心の高ぶりである。いわゆる
「自由意志」と呼ばれているものは、本質的に言えば、ひとが自分に服するものに
対して抱く優越の感情である。「私は自由である。<彼>こそ服従しなければならない」
―こうした信念があらゆる意志の根底に潜んでいる。そして同様に、あの緊張した
注意力、ただ一つのものだけを見すえる直接的な眼差し、つまり「いまはこれが必須
のもので、他のなにでもない」という堅固な判断、うまくそれを服従させることが
できるに違いないという内的確信、などもそこに潜んでいる。またさらには、命じる
者の心理状態に属するもの一切もそこに秘められているのである。欲する」という
こと、つまり「意志する」ということは、自分の内部で、服従するなにものかに
命令するということ、あるいは自分に服従するに違いないと思うなにものかに命令を
下すということなのである。ところでしかし、こんどは、意志というものの最も
独特な側面を、つまりあれほど多様で、複雑なのに、民衆はただの一語によって
名づけている意志というものの最も奇妙な一面を考察してみたい。どんなケース
にせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ
服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、
強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを
抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じうるこうした不快な
感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは、<私>という
統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は
存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が
安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って
意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関して
まとわりついてきたのである。それゆえ意志する人間は、行為をなすためには
意志するだけで充分である、と本気で信じるようになっている。そしてほとんどの場合、
ひとが意志するのは、そうやって下した命令が受け入れられて実際に効果を生む
と期待できる場合、つまり命じた行為が実現して服従ということが起こると期待
される場合だけであるから、ひとはこういうプロセスの上辺だけの外見を誤って
解釈して、ほんとうは命令され、服従することによって実現したそういう行為を、
あたかもそれが必然的に生じた行為であるかのように思いこむことになったので
ある。要するに、「欲する」人間は、かなりな程度の確信を持って、意志する
ことと行為をなすことはなんらかの仕方で一つのことである、と信じているのだ。
―彼は、意志したことが成功し、行為として成就した理由を、意志そのものの
おかげであるとみなし、また同時に<力>の感情が昂められて(なぜなら成功した
のだから)、ある快感を享受する。「自由意志」とは、このように「意志する」
人間の複合的な至福感、すなわち命令を下す者であり、かつまた同時に命じられた
行為を実行する者と同一化する人間が味わう複合的な快感を指し示す語なのである。
そういう意志する人間は、諸々の抵抗に打ち克つ快感も味わうのであり、それも
自分の意志こそがそうした抵抗をのり超えたのだと信じつつ、その快感にひたる
のである。だから意志する人間においては、命令を下す者としての感に、その
命じられた行為をうまく実行する道具となることから生じる快感が付け加えられる。
そういう道具とは何かと言うと、さまざまな「下位の意志」、つまり命令に服従
する下位的な意志、あるいは下位的な魂たちのことである。なぜならわれわれの
身体とは、多数多様な魂たちによって構成された共同建造物以外のなにものでも
ないから。「その成果こそ、私である」。いま述べたような事態において生じて
いることは、あらゆるうまく組織された幸運な共同体において起こることと同じ
である。つまりその支配階級は、共同体全体の諸成果と自己を同一視するのである。
すべて意志するという事柄において問題になるのは、命令を下すことと受け
入れること、すなわちいま述べたように多数多様な魂たちによって構成された
共同的建造物の内側で命令を下すこと、および命令に服従することなのである。
だから哲学者は、「意志する」ということを、道徳の視角の下に考察する権利を
手にしなければならない。道徳といっても、それは支配・服従の関係に関する学問
として構想された意味での道徳である。そういう支配・服従の関係からこそ、
「生」という現象が由来するのであるから。
(『善悪の彼岸』第一章、一九、ジュヌヴィエーヴ・ビアンキ訳、オービエ)

G・D ニーチェ選集 Dの一八

  • 2012/09/17(月) 21:35:07

G・D ニーチェ選集 Dの一八

※文中の傍点や振り仮名は省略

D ニヒリズムから価値転換へ

「ニヒリズムの、ニヒリズム自身による超克」
(一八八七年の「遺された断想」より)。

一八 神とニヒリズム

 キリスト教は憐憫の宗教であると言われる。―憐れみや同情とは、生の感情の
エネルギーを高めるような、いわば強壮剤として作用する情愛とは正反対のものである。
それはむしろ人の心を消沈させるよう働く(略)。憐れみや同情は、ちょうどよい時機に
まさしく消滅しようとしているものを含みこんで、引きとどめる。生の恵みを避ける者とか、
生から断罪された者たちのために防戦する。憐れみや同情は、さまざまな種類の出来損ない
のものを、多数、生のうちに引きとめておくことによって、生そのものに暗く、何となく疑わしい
様相を与えるのである。
 こうした憐れみや同情を、ひとびとはあえて美徳と呼んできたのだ(―あらゆる高貴な道徳
においては、それは弱さとみなされているにもかかわらず)。さらに世人は一歩進んで、
憐れみや同情を美徳そのものであるとし、すべての美徳の素地にして、かつ根源となるもの
であるとした。―しかし忘れてならないことは、こういう見方は、ニヒリズム的な哲学、
生の否定をその盾の上に紋章として刻みこんだ哲学の視点からのみ眺めた見方である、
ということだ。ショーペンハウアーが「生は憐れみや同情によって否定される―そして
そのことによって生は、よりいっそう否定されるにふさわしいものとなる」と述べたとき、
彼は正鵠を射ていたのである。―憐れみや同情とは、ニヒリズムの実践である。繰り返して
言うと、心を消沈させるようなこの衝動=本能、伝染性のこの衝動は、生を保ち、
生の価値を増大させようとする諸本能の行く手を遮るものである。憐れみや同情の本能は、
あらゆるみじめさを保存し、かつ倍増させるものとして、デカダンスへの隆盛へと促すための
主要な道具の一つなのである。―憐れみや同情は、ひとを虚無へと向かうよう説得する!・・
・・・だが、それを「虚無」とは言わない。その代わりに「彼岸」をすえる、または「神」をすえる、
または「真の生」をすえる。あるいは、涅槃とか、救済とか、至福とかをすえる・・・・・・。
これらは、宗教的かつ道徳的な異常体質の領域から生じた、だからそこへ戻っていく無邪気な
レトリックのように見えるが、しかしこのような崇高な言葉のマントを」まとっているのが実は
どのような傾向であるのかを理解するとすれば、たちまちそれは無邪気どころではなくなって
しまうであろう。つまり、それは生に対し敵意と反感を持った傾向なのである(略)。
 キリスト教の神概念―病める者たちの神、蜘蛛としての神、精神=霊としての神―こうした
概念形成は、これまで地上に出現したなかでも最も腐敗している神概念のうちの一つである。
おそらくそれは、神々の類型が展開していく過程で下降線をたどり、最低水準にまで達して
しまったものでさえある。神は生を称揚し、生を永遠に肯定するものである代わりに、
生と矛盾する者にまで退化したのである! 神の名においてなされることは、生に対する
宣戦布告、自然に対する、生への意志に対する宣戦布告なのだ! 「此岸」に向かって
投げつけられるあらゆる誹謗・中傷のための方式である神!―「彼岸」に関するあらゆる
虚偽の言葉のための方式である神! 虚無が神格化されたものとしての神、虚無への意志
が神聖化されたものとしての神!・・・・・・
(『アンチクリスト』七および一八、アンリ・アルベール訳、メルキュール・ド・フランス)

G・D ニーチェ選集 Bの七

  • 2012/09/17(月) 21:30:08

G・D ニーチェ選集 Bの七

※文中の傍点や振り仮名は省略

B 哲人ディオニュソス

「主人公は陽気である。これこそ悲劇の作者たちが見逃してきたことである」
(一八八二年の「遺された断想」より)。

七 ディオニュソスとアポロン―両者の和解(悲劇的なもの)

 芸術は、アポロン的なものとディオニュソス的なものとの二重性によって進展していく。
それはちょうど生殖が、絶え間なく争い続ける男女両性の周期的名、一時の和合に
よって子供を生み出す様子と類似している。もしわれわれがこの情事を、理性的な
洞察によって理解するのではなく、直感による直接的な確信とともに捕捉しうると
したならば、われわれは美学的領域において、ある決定的な一歩を進めたことに
なると言えよう。アポロン的とディオニュソス的という二つの用語を、われわれは
古代ギリシア人から借りうけている。ギリシア人たちが語っているところによく耳を
傾けて聴くならば、彼らがその芸術観の秘められた、深い真実を、諸概念によって
表現しているのではなく、自分たちの神話世界に出現する神々の、明確で、説得力
に富む形姿によって表していることがわかる。
 ギリシア人の二柱の芸術神、アポロンとディオニュソスとを基にして、われわれは
次のような示唆を受け取ることができる。つまりギリシア世界には、造形家の芸術で
あるアポロン的芸術と、音楽という非造形的芸術であるディオニュソス的芸術との
あいだに、その起源という観点からしても、また目的という観点からしても、目をみはる
ばかりのコントラストが存在するということである。まったく異なる性質のこれら二つの
本能的衝動は、それでも互いに並行して歩み、多くの場合公然と相剋しながら、
相互に刺激し合って、つねに新しく、よりいっそう力強い作品の創造へと促す。ただし
そういう作品のうちには、対立する両極の争いは永久に跡づけられており、両社に共通
の語である「芸術」という名称があいだを取り持っているものの、それも外見上のことに
過ぎないのである。ただ最終的には、ギリシア的「意志」という形而上学的な奇跡の
おかげで、これら二つの衝動は結び合わされて出現することになり、そしてこの結婚に
よってついに、ディオニュソス的でもあり、また同時にアポロン的でもある芸術作品、
アッチカ悲劇を生み出すことになるのである。
 これら二つの本能的衝動をもっと正確に思い描くために、われわれはまずそれらを、
夢と陶酔という別々の芸術世界として想像してみることにしよう。夢と陶酔という二つの
生理現象のあいだには、アポロン的なものとディオニュソス的なものとのあいだにある
のと同じようなコントラストが認められるのである(略)。
 こういう事実を認識すると、ギリシア悲劇とはディオニュソス的なコーラスのことであり、
そのコーラスが自分の内から外へと向かってアポロン的な諸々の形象の世界を投射
することによって、緊張の昂まった自己を発散していく過程であると理解されよう。
コーラスの諸部分は悲劇作品の中でところどころにうまく組みこまれているが、
そうしたコーラスの諸部分こそがだからある意味において、「対話」と呼ばれる残りの部分
全体の母胎なのである。つまり本来の意味でのドラマの、演劇的舞台要素全体の母胎
なのである。ギリシア悲劇の根源をなすこの基底部分が、次々と継起して激発を繰り返し
ていくうちに、いわばそこから放射されるような形で、いわゆるドラマとしてのヴィジョンが
生み出される。このヴィジョンは、根源的には一つの夢であり、だからその限りで叙事詩的
な性質のものである。しかしまた一方では、そのヴィジョンはディオニュソス的な状態の
客観化もあるのだから、アポロン的な仮象による救済を表すのではなく、逆に個体が崩壊
することを、そして個体が<根源的存在>のうちへと解消されることを表しているのである。
従ってそのドラマは、ディオニュソス的な諸観念や諸行動を、アポロン的に再現=表象
することにほかならない(略)。
 ディオニュソスはついにアポロン的な諸現象のうちに、自分自身を客観的に示すのであり、
こういうアポロン的な諸現象は、もはや合唱隊の音楽のように「永遠なる海、うねる波動、
燃えさかる生命」というわけではない。それはもはや、ただ感受されるだけで、諸々の形象
のうちへと凝集されることのない諸力ではない。つまりディオニュソスの従者が神の接近
を感じたとき、うっとりと恍惚感に耽る場合のようなあの諸力ではないのである。今や
ディオニュソスは、舞台の上で、叙事詩的な形式の持つあらゆる確実さと揺るぎない態度
で語る。すなわちもはや不可解な諸力の仲介を通じて語るのではなく、叙事詩の主人公
として、ほとんどホメロス的な言葉をもって語りかけるのである。
(『悲劇の誕生』一および八、ジュヌヴィエーヴ・ピエンキ訳、N・R・F)

G・D ニーチェ選集 Aの一

  • 2012/09/17(月) 21:21:51

G・D ニーチェ選集 Aの一

※文中の傍点や振り仮名は省略

A 哲学者とは何か?

「反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって
行動することによって、時代に働きかけること、それこそが
来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ」
(『反時代的考察』)。

一 仮面をかぶった哲学者

 哲学的精神がなんらかの程度や範囲において存在することが可能となるためには、
それはつねにまず以前から確定されている瞑想的人間という諸類型を借りて扮装し、
仮面をかぶるところから始めねばならなかった。すなわち、司祭とか、預言者とか、
一般的な宗教人とかいう諸類型を身にまとわねばならなかったのである。長い間
禁欲主義的理想こそが、哲学者たる体裁をととのえるのにふさわしい外見として、
また哲学者という在り方の条件として役立ってきた。―哲学者たりうるためには、
この理想を体現しなければならなかったし、またこの理想を体現しうるためには、
この理想を信じなければならなかった。世俗を超脱するという哲学者特有の態度、
世界を否認し、生に敵対し、厳粛で、感覚を信じまいとする存在様式、それらは今日
に至るまで固持されてきており、だからそれらはほとんど哲学者的態度そのものと
みなされるほどになっている。―だが、こういう態度は、なによりもまず、そもそも
哲学というものが誕生し、存続するために不可欠であるとされた諸条件、つまり
強いられた諸条件の一つの結果なのである。なぜなら、きわめて長い間、哲学は
禁欲主義という仮面や扮装なしには、禁欲主義という思い違いなしには、この地上
に存在することがまったく不可能であった、と思われるからである。もっと具体的に、
一目瞭然な言い方をすればこうである―禁欲主義的司祭は今日に至るまで最も
厭わしく、最も陰気くさい青虫の姿をとっており、そういう形姿においてのみ生存を
許され、匍いまわっていたのである・・・・・・。そうした姿がほんとうに変わったの
だろうか?多彩な翅を持つあの危険な蝶が、つまり繭のうちに固くつつまれていた
「精神」が、実際もっと陽光に照らされ、もっと暑く、もっと明るい世界のおかげで、
ついに古びた僧服を脱ぎすて白日のもとへ飛び立つことができたのだろうか。
今こそ実際、「哲学者」が存在しうるに充分なだけの誇りが、大胆さが、勇敢さが、
自覚した意識が、精神の意志が、責任への意欲が、自由意志が既にこの地上に
現存しているのであろうか。(『道徳の系譜学』第三論文、一〇、アンリ・アルベール訳、
メルキュール・ド・フランス)