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海程 459

  • 2009/12/31(木) 23:58:08

平成二十一年、大晦日。
紅白歌合戦が終わり、ゆく年くる年の除夜の鐘を横耳にこれを書く。
まもなく平成二十二年の初日を迎えようとしている。

現代俳句 『海程』 平成二十二年一月号 459号 が届いた。

『海程』の中身は、卒寿なお矍鑠たる金子兜太主宰の句からはじまり、
同人句、会友句、各句観賞、各種連載、評論、エッセー、句会報などからなる
A5版140ページほどの俳誌である。来年で五十周年ということだ。

今月号は前回の海隆賞1名、海程賞2名、海程新人賞2名の各受賞者ごとに
「特別作品20句」が組まれていた。正直に言うと受賞作の方が好きだが、
各氏3句ずつ抜き出してみる。

第三十三回海隆賞受賞 加川憲一氏

 秋落睴ばかに強気な花屋にて
 霜のダリア遊女であり濁世であり
 サルルンカムイ逝った者から忘れられる

第四十五回海程賞受賞 大西健司氏

 栃の実の届かぬ高さ愛しかり
 くすり売り身性近江の男郎花
 旅の余白に榠樝と書いて温めぬ


第四十五回海程賞受賞 宮崎斗士氏

 蓑虫にも僕にもぴったりくる雨音
 ポインセチア筒を抜けたら君がいた
 朝の純度しゃくとり虫が知っている


第四十四回海程新人賞受賞 大野泰司氏

 一列にかまきり生まる指呼の間
 かなぶんの消す灯峡の終一灯
 コスモスの鼓動摑めど兄おらず

第四十四回海程新人賞受賞 中村晋氏

 一滴でフラスコは黄に初つばめ
 初音という一滴に山目覚めけり
 燕帰る筆致に声が聞こえてきて

さて、
入会費を払えば会友となり、毎月『海程』が届くと同時に投句の資格が生じる。
最後ページにミシン目で切り取る「海程集」専用投句用紙がついていて、
5句以内で投句できる。「海程集」というのは会友の発表コーナーだ。
私は同人ではなく単なる会友なので「海程集」というコーナーのみに投句できる。

毎号「海程集」には全国各地の会友300名弱からの投句があり、金子兜太氏(主宰)、
武田伸一氏(編集)による共選で、投句した句の中からダメな句が省かれて一人3〜4句
が掲載される。掲載句のうちある程度マシな句に○印がつけられる。
金子氏、武田氏がそれぞれ好句・好作と思うものは抄出掲載され、いくつかの句は
観賞、講評してもらえる。

さて、私は10月から会友となった。もちろん毎回投句しているが、10月の投句が掲載
されるのは1月号で今回が初めての掲載である。嬉しいので出来栄えは棚に上げて
以下に記す。投句5句、下2句は未掲載(ボツ)だ。
多作多捨を心がけ、これと思ったモノには何度も推敲を重ねて、投句する時はいつも
選りすぐりの5句のつもりだが、後で読むとがっくりする。今回○印の句など他に比べ、
割とさらりと書いたものであったので存外だ。

○実南天夕日に巫女の影長し
 賛美歌やポプラ並木の空高く
 トルソ冴ゆ胸乳も腰も柔らかく

 登高の吐息の懺悔白き海
 鐘塔の音に瞑る朝息白し


以上

乗りそこないのタイムマシーン

  • 2009/12/31(木) 17:16:05

12/30クラスA納会。
ガーリックチップスを出たぼくらはSのリクエストでタイムマシーンに向かった。



相当うろうろしたが、そこに在るはずのタイムマシーンがない。
そこに在るのは、残念なことにワタミであった。
       

タイムマシーンに搭乗する前にタイムスリップでもしてしまったのか!?

あくる日、知った。ぼくらは過去にいたのである。
現在、タイムマシーンは移動してリニューアルされている。

以上

books reminder 思想地図vol.4 [村上春樹とミニマリズムの時代]

  • 2009/12/29(火) 10:37:55

『村上春樹とミニマリズムの時代』

NHKブックス別巻「思想地図」vol.4 特集・想像力(NHK出版)

登場人物が賑やかで興味深い。
目次を以下に紹介する。
−−−−−−−−−−
・ミニマリズムからハイブリッドへ 東浩紀
・日本的想像力と成熟 中沢新一インタビュー(聞き手・東浩紀+白井聡)
・「構成」の想像力―建国神話の生み出す政治文化 仲正昌樹
・アート不在の国のスーパーフラット 村上隆インタビュー(聞き手・東浩紀+黒瀬陽平)
・新しい「風景」の誕生―セカイ系物語と情念定型 黒瀬陽平
・ラメラスケイプ、あるいは「身体」の消失 斎藤環
・[座談会]物語とアニメーションの未来
 東浩紀+宇野常寛+黒瀬陽平+氷川竜介+山本寛
・キャラクターは越境する?―二つの創作に寄せて 宇野常寛
・[創作]イッツ・オンリー・ア・ビッチ 阿部和重
・[創作]エスパーニャの神 鹿島田真希
・[座談会]村上春樹とミニマリズムの時代
 東浩紀+宇野常寛+福嶋亮大+前田塁
・ポスト・ゼロ年代の想像力―ハイブリッド化と祝祭モデルについて 宇野常寛
・[座談会]変容する「政治性」のゆくえ―郊外・メディア・知識人
 東浩紀+宇野常寛+速水健朗+宮崎哲弥
・[対談]父として考える 東浩紀+宮台真司
・[特別掲載]「生命化するトランスモダン」への助走
 ―「環境」と「生命」の思想戦史 中川大地
−−−−−−−−−−

[座談会]村上春樹とミニマリズムの時代 から目を通している。

『1Q84』にはがっかりだ、と全員一致で話がはじまるのだが、今回もご他聞にもれず、
私はイライラしている。

この小説のストーリーや設定はオウム事件をふまえているが現在既に時代錯誤だ。
そうだそうだ、そんなことを書く作家の想像力は鈍っている、そうだそうだ、みたいな座談会。

いつもそうなんだが、彼らにとっては小説だろうとアニメだろうと映画だろうと音楽だろうと
なんでも口調が一緒だ。「批評」と言って何らかの作品を取り上げるのだが、喋りたい内容
があらかじめあって、作品は話しにからめやすい「ネタ」のようだ。
だいたいにおいて、現代社会は「かくかくしかじか」だと世の中を「俯瞰的に要約」して、
その作品がその「俯瞰的な要約」とどう関連するか、をお話される。作品そのものについて
の話は期待できない。

<『1Q84』が支持されているのは単純な話で現代のサブカルチャー的な想像力に完全に
淫しているからですね。村上春樹はこういった小説を書きたかったと思うんですよ。単純で、
分かりやすくて、だからこそ広く浸透していく小説・・中略・・八五年に『世界の終わり〜』を
書いている村上春樹はやはり偉大だと思うわけですよ。八五年の時点で九五年以降の
セカイ系的なものを予見し、表現の雛形まで提供している・・>宇野

<『新世紀エヴァンゲリオン』の新しい劇場版における改変がいい例ですが、九五年当時
に流行していた作品が、大きな改変なくして現在に受け入れられるとは思えない。社会の
変化の方は確実に実在しているわけです。それが文学のなかでちっとも物語化されてない
ことの問題じゃないか。本来、村上春樹の偉大さというのは、物語化される以前の社会の
変化とか無意識的なものを想像力で描いていくというところだったわけですね。そのアンテ
ナが決定的に鈍ってしまっている>宇野

こんな宇野の意見に皆、そうだ、そうだと。
小説家は預言者か!?。何を期待しているんだこの人々は。

かろうじて前田が<ここまで語られているのは主に主題や物語面での話ですが、小説的
な形式の面でも、九五年以降の村上春樹の振れ幅を観察することはできるはずです>
と、座談会の話の中身を「小説的」な方面へ随所で誘導しようとするが、失敗している。
文芸についての思い入れなどこれっぽっちもない人々の話の流れに飲み込まれちゃってさ。
言葉の芸として小説を楽しむ人達じゃないよ。
もっと前田さん頑張ればいいのに。

東に至ってはさらに酷い。いろいろ酷いが一点だけ、この座談会のタイトルにもしている
「ミニマリズム」について、
<語彙を制限すれば静謐な世界をつくることができる。> と言い切っちゃう。できないよ!
座談会当日、熱でもあったんじゃないか。
ことばの使い方は頭に無い。何が書かれているかの話ばかりで、どう書かれているかには
無関心。ご自愛ください、としか言いようがない。

社会の俯瞰的要約と何が書かれているかだけの話が得意な人たちなので、話のネタは
「ドリカム」にとんだりする。八十年代の日本女性、実は保守的だった、と「俯瞰的な要約」
をした上で、「決戦は金曜日」の歌詞をとりあげて、そんな女性のメンタリティを代表するよう
な歌詞が時代とマッチして売れたとか。なるほど。彼らの音楽、声、パフォーマンスは無視。

こういう観点は、作品や作家を論じるひとつの観点ではあるだろうが、論点が偏り過ぎだ。
それはそれで良い。ある意味楽しいゴシップだ。が、しかし「ゼロ年代」の人々は、自分らが
ゴシップで楽しんでもらっている自覚はないだろう。週刊誌と変わらない、と言われたくない
だろう。どうしたらいいかは自分らで考えるがよい。

ただし、
社会を語るネタに小説を使ったり、小説にイデオロギーをよみこむのは勝手だけど、それで
作者ごと批判したりするのは失礼だから止めたほうがいい。


サラリーマンの会社や上司の愚痴大会みたいな座談会に見えた。彼ら流にいえばこれも
立派な批評だが。

しかもそんな調子で論壇を形成したいとか([座談会]変容する「政治性」のゆくえ)。
宮崎さんに笑われちゃうよ。

あら、もうこんな時間だ。
今日は大掃除をするのだ。

以上

『芝浜』

  • 2009/12/29(火) 08:17:48

今朝の夢で、古今亭志ん生の『芝浜』を観た。

ような気がする。

目覚めた時はもっとはっきり観た気がしていたのだ。
なんかこう、興奮して、この夢覚めやらぬうちにメモしておこうと起床したのだが、

すぐにやればいいのに、起き上がって珈琲を淹れたり、メールやらAmazonやら
mixiやらにひっかかっちゃったりして興奮はさめて、なんというか、
気の抜けたビール、乾いた食膳、湿気たクッキー、そんな余計なイメージを思い
描いたりしているせいでどんどん夢は風化して、こうして書いているうちに書く気
すら失せつつあるが、いやにはっきりした夢だった気がする。

夢の話を夢でみてその夢をみたのかどうかも怪しい、なんて、正に芝浜だ!
と今気がついたところで、またやる気を出して書いている。

何のことはない、おとつい志ん生と三木助の録音を聴きくらべたりしたせいで、
それで夢にみたのだ。実演を観たことはないけど。

しかし、古今亭志ん生の『芝浜』には泣いた。
魚熊の熊さんのちゃんとした仕事ぶりの紹介からはじまる志ん生のは、女房が
優しいのだ。落ちる前の溜めも絶妙。
桂三木助の方は一昔の隅田川二月の白魚が旨いという噺の枕からのめりこんじゃう。
情景描写が細かい。大晦日、芝浜の黎明を美しいと感じる勝さん、芝浜で顔を洗う
すがすがしさ、好きだなあ。

面白いのは三木助、じんとくるのは志ん生。

立川談志の芝浜もみたいなあ。

以上

来るべき書物 『エチュード』

  • 2009/12/27(日) 08:16:03

『エチュード』


磔刑を描こうとする画家がいた。
その画家の熱心な愛好者がおり、モデルとなった。
はじめ、そのモデルは画家への妄執のあまりリアルを志願したが、
画家は命を大切にした。

十字架に磔られたふりをして項垂れる者と、そんなフィクションから
何かを表現しようとする者がいた。

そこへ、別の者が登場した。
そして、磔刑は執行された。
さらに、ひとつの死に終らない。

それらの死、あるいは生は、誰のものなのか。
その光景は、彼岸か此岸か。

そもそもなぜその画家は磔死を描くに至ったのか。

通りを歩くあなたの後ろから、矢庭に声をかけてくる者等がいる。
ちょっと話を聴かせてくれないかと。

以上