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[Rolling into the stream]@Atelier Kika(鎌倉)

  • 2013/09/16(月) 09:49:45

[Rolling into the stream]
ノモトヒロシ+岡野里香展
Atelier Kika(鎌倉)
September 22~29, 2013

http://riccaokano.com
http://hiroshinomoto.com
http://goo.gl/maps/qRMZG

陶も金属も遊び心にあふれていて楽しそう。

フランシス・ベーコン展

  • 2013/05/26(日) 23:00:00

フランシス・ベーコン展@東京国立近代美術館
http://bacon.exhn.jp/

今日5/26までの展示、昨日行ってきた。ぎりぎり。
色調はどの絵もだいたい暗い。たぶんベーコンは根暗なんだろう。
でも好きなモノを好きに描いていて楽しそう。

こっちの絵で闘牛に突かれて血を流している男の足は、きっとそっち
の絵の中の男のもので、あっちの絵で椅子に座っている男とも何だか
似ていて、きっとベーコンの恋人なのだ。
エジプト旅行ではスフィンクスにずいぶん感激したんだろう。でもって、
帰ってきた後に描く人物がスフィンクスになっちゃう。暗い牢屋のような
部屋で緊張した面持ちの寂しげなスフィンクス。

ベーコンが男を描く時は隆々とした筋肉の塊で、顔はどうでもいい。
ベーコンにとっての女は丸みを帯びた肉塊かおっぱいであって、それ
以外のものではない。だいたいにおいて。
対象に対する思い入れというか愛情を感じる。だから、背景などシンプル
にすましちゃうし、手足の先まで一々細かい描写をするなんてことには
関心がない。
ベシャっと顔面は潰されて、皮膚も輪郭も損なわれたケロイドのごとき
表情。アンバランスな身体のねじれ、ゆがみ、まちがった接続。そこに
色々と哲学的、精神分析的解釈を接続することは可能だし、ひとつ
の楽しみ方だろう。みんなベーコンの絵を勝手に楽しめばいいのだ。
ただ、ぼくは、ベーコンに言葉を接続して意味付けや説明をするよりも
絵そのものの可笑しみを味わいたい。

展示会場に流れていたベーコン本人のインタビュー映像では、創作の
方法について「アクシデント、チャンス、降りてくるのを待つ」のようなこと
を言っていた。そんなものなのだ。たまたま、絵筆をベシャっとやって
みたら、面白い顔になった、ぐらいの描き方をしているのだよ。
それでいいじゃない。
5月の秩父俳句道場で金子兜太先生に「創作する際、主題をあらかじめ
設定するか」と質問をしたところ思わぬ答えが返ってきたのを思い出す。
「コンディションだな。体調を万全にする。」つまり、その瞬間をつかむには
先ずは心身の調子を整えておくことが大事なのだ、と理解した。

それにしても、土方巽には笑った。ベーコンを観たらどうしてもベーコン
をやりたくなっちゃうのね。そうしたら、展示会場の最後でまたまた土方と
おなじようにベーコンやらなきゃ気がすまない!って感じのひとがベーコン
的にくねくね踊ってて吹き出してしまった。(ウィリアム・フォーサイスだった)。

あー楽しかった。

帰りがけ、神保町の『マンダラ』に立ちよりチキンバターマサラ、美味し!
御嬢は小辛、ぼくは大辛。頭のてっぺんから汗かいた。ベーコンも汗と一緒
に流れていった感じがした。

以上

Jackson Pollock 展

  • 2012/03/20(火) 23:55:12

Jackson Pollock展

生誕100年 ジャクソン・ポロック展
2012年2月10日(金)〜2012年5月6日(日)
東京国立近代美術館




観てきた。

うねり、躍動、カンバスにとじていられない力、溢れそうで胸がいっぱい。

なんかぐちゃぐちゃ?。カオス?素粒子の軌跡、糸くず?確かに。
整理整頓された落ち着きではないな。混沌とした躁鬱、饒舌、過剰、
鼓動。これが今の僕(ポロック)なのさ。
今の自分を直接表現すること。
わがままで勝手な「ポーリング」の方法は100%偶然に頼るわけでも
ないし、自動筆記でもない。今の僕そのものが逐一露呈されてゆく。

ポロックは、ピカソや岡本太郎と同様に、その前に誰もやっていない
ことをやり、その後に誰が真似をしてもオリジナルが揺らがない仕事を
した。美術に係わらず表現に係わる者達に勇気と情熱を湧きたてる。

感動した。


さて、それにしても、絵画にしても映画にしても俳句にしても、極力、
先入観をもたずに鑑賞するように心がけよう。くだらない解説文や
よびこみの宣伝広告など見ないか見てみぬふりをすべし。じっさい、
評価額200億円などという情報は作品の評価を云々する以前の
下卑た宣伝文句以外の何物でもなく恥ずかしい限りだ。会場内の
作品脇の解説プレートにしても作品を鑑賞するのには全く役立たない。
アメリカならでは?くそくらえだ(ポロック本人がそんな評価はくだら
ないと言っているではないか)。メキシコ壁画の影響がどうのとか
ネイティブアメリカンがどうのとか、ピカソに追いつけ追い越せとか
ユング派の精神分析がどうのこうのとか、心地よい文脈に押し込めて
説明と納得を志向する解説はやめてほしい。そもそも主題性など無い
ポロックなのだから、余計な解釈や誤解を招きかねない稚拙な感想文
を作品の脇に置かないでほしい。最後にまとめて参考情報として提示
する程度でよいではないか。たいがいの来場者は作品を観る前に
その駄文を一読するものだから余計な先入観で素直な鑑賞の機会を
奪われてしまうのではないかと心配しました。

北の丸公園の河津桜、春日に満開でした。
そういえば、今日から段々日が長くなる。



以上

Books reminder, 『談』82号 おとはどこにあるのか

  • 2010/01/24(日) 22:54:06

『談』82号 特集 おとはどこにあるのか・・・聴くではなく、奏するでもなく

「技であり芸」を音の分野でテクニカルに検討するとこうなるのかもしれない
というのが、『談』82号のお話。やはりアートとは、いのちにかかわるのだよ。

柏野牧夫と池谷裕二<対談>理性を導く音の快楽
物理的に同じ音を反復すると知覚が変化する。バナナバナナバナナバナナ・・・。
「バナナ」というクリアな音声をループするのだが「ナッパ」になったり「ナンバ」
になったり、聞こえ方が変わる。

一定感覚毎に無音を挟み込んだ声は意味が分からないが、無音の代わりに雑音
を入れると意味がわかる。音楽の場合も前者は音が飛んで聞こえるが、後者は
なめらかな音楽に聞こえる。

「バ」と言っている音声に「ガ」と言っている映像を重ねたものを観ると「ダ」と聴こえ
てみたりするのは聴覚が視覚に左右されるということ。

音があるからといって聴こえるとは限らない。
知覚意識は音そのものではない、という脳のシステムの話。

脳の快楽を感じる場所は腹側被蓋野という場所で、音楽を聴いて陶酔していると、
この場所が活動していることが知られている。しかも自分の好きな音楽を聴いて
いる時だけ活動してドーパミンを出す。

関連した実験で、8khzの周波数の音の時にだけ腹側被蓋野を電気刺激すると、
1時間もすれば視覚野のニューロン/神経細胞が8khzに敏感に反応するように
なったという。8khz周辺の変化に敏感になるということは、好きなモノの変化に
敏感であることと通じる。

関心のない人が聞いたら同じ音にしか聴こえないミニマルテクノのバリエーションに
興奮したりする風景を説明している。新奇性があると報酬が出る、脳は予測性能を
高めようとする、そのためには予測できない部分が大事。予測できないことを検知
することが生物学的に意味がある。しかし予測誤差は外界からくるものだけではなく、
内的にも発生している。脳の状態は一定ではない。外界情報が一定だと、脳内で
発生するちょっとしたノイズも新奇データとして扱われ、新たなパターンを認識したり
する。バナナの例などがそうだ。
しかし、外界からのデータがゆらぐと逆に脳内では知覚を安定化する傾向がある。
アナログレコードの音が良く聞こえるもの実は回転数の揺らぎや針音など不規則な
ノイズが実は脳内知覚に影響しているのではないかと考えられている。

上記を踏まえた探求かどうかは分からないが、渋谷慶一郎と小沼純一の
<対談>「聴いたことのない音楽」の方へのなかで
渋谷慶一郎
「・・・消費のみの若者はもう放っておいて、ちゃんと聴いてくれる良質なリスナーだけ
を相手にしていればいいという。それは一つの方法ではあるけれど何かが抜け落ちる
気はするんですよね。
いくら実験的だとか言ってやっていても、括弧つきの「最先端」になっちゃう可能性が
大きい。
むしろ僕は、今は逆の方向を考えています。たとえば、カップラーメンとかコーラって
依存しますよね。
脳にアディクトする。同じように音色をスペクトラムや周波数特性など徹底的にリサーチ
して、記号性、習慣性のような記憶の問題を抜きにしてアディクトする音色をつくる
というか探す。・・・アディクトとしての音楽。これは危険なんだけどすごくやってみたい。」

Greg Eganの短編集『TAP』(河出書房新社)に収録の「新・口笛テスト」を彷彿とさせる。
CMコンサルタントのアンダーウッドの前に、「応用神経マッピング社(ANM)」の社長が
セールスにやってくる。ANMは音楽の処理に関する神経経路を特定し、万人の当該神経
ネットワークが共有している特性を研究して、コンピュータモデルを定義し、そのモデルに
対してこちらの望みどおりの影響を与えることに特化した音楽を、設計することができる。
バカにしていたアンダーウッドだが、そうやって作曲されたサンプルを、一度聞いただけ
なのに、好きでもないのに無意識に口笛で吹いていることに気づく。
しかもその口笛を聞いていた妻までもが。
やがてANMの楽曲がCMソングに採用され、クライアントは大喜びだが・・・。
事態は恐るべき展開を迎える。

渋谷慶一郎の第三項音楽の音色生成ソフトウェアでは、あるパラメータを入れると
サウンドファイルがひとつ出来上がる。これが普及すると電子音楽、コンピュータミュー
ジックをめぐる状況は大きく変わると思う、と発言している。
自動作曲というわけではなく、新しい音色を作りたいという意志。
作曲家のイメージ、頭の中で鳴っているものと無意識を連結させるインタフェースに
テクノロジーがあるという。

予測できないこと、聴いたことのない音楽、新奇性への報酬。
生物学的な意味と無意味、LIFEにかかわるリスクと、アートとの相関について、
ぼくはまた考えているところだ。

以上

『芝浜』

  • 2009/12/29(火) 08:17:48

今朝の夢で、古今亭志ん生の『芝浜』を観た。

ような気がする。

目覚めた時はもっとはっきり観た気がしていたのだ。
なんかこう、興奮して、この夢覚めやらぬうちにメモしておこうと起床したのだが、

すぐにやればいいのに、起き上がって珈琲を淹れたり、メールやらAmazonやら
mixiやらにひっかかっちゃったりして興奮はさめて、なんというか、
気の抜けたビール、乾いた食膳、湿気たクッキー、そんな余計なイメージを思い
描いたりしているせいでどんどん夢は風化して、こうして書いているうちに書く気
すら失せつつあるが、いやにはっきりした夢だった気がする。

夢の話を夢でみてその夢をみたのかどうかも怪しい、なんて、正に芝浜だ!
と今気がついたところで、またやる気を出して書いている。

何のことはない、おとつい志ん生と三木助の録音を聴きくらべたりしたせいで、
それで夢にみたのだ。実演を観たことはないけど。

しかし、古今亭志ん生の『芝浜』には泣いた。
魚熊の熊さんのちゃんとした仕事ぶりの紹介からはじまる志ん生のは、女房が
優しいのだ。落ちる前の溜めも絶妙。
桂三木助の方は一昔の隅田川二月の白魚が旨いという噺の枕からのめりこんじゃう。
情景描写が細かい。大晦日、芝浜の黎明を美しいと感じる勝さん、芝浜で顔を洗う
すがすがしさ、好きだなあ。

面白いのは三木助、じんとくるのは志ん生。

立川談志の芝浜もみたいなあ。

以上